遠藤さくらは、アイドルなのか、女優なのか
「わたしには、なにもない。」
なくして 気づく
かぎられた 時間は
魔法みたいだよ
林 希 / わたしには、なにもない。
『わたしには、なにもない。』を演じ唄った時点で、夜明け=夢を前にして現実との別れの予感を満たすその物語を自己のモデレートな部分と遠く響き合わせるように甘く柔らかに表現した時点で、すでにひとりの女優であり、今日のアイドルの有り様に対しけして順接の起こりえない場所に彼女は立っていた。
わたしには、なにもない。これはアイドルの未成熟さ、成長の余白、その可能性の膨大さを遠望した一人の作り手の、ひとつの希望の科白と読める。しかし、この作品が遠藤さくらに演じられ表現されたことによって、そこに映し出されたものとは、未成熟ですらない少女の横顔、つまり文字通り、空っぽの自分、であった。
わたしには、なにもない。この告白が、弱さを軸にしたアイドルの物語のプロローグ、成長への胎動を教え、文句なしの感興を落とし込むも、しかし同時に、アイドルを作り上げること、アイドルとして成長することによって、自分は何者でもない、何者でもありえないという、つまり、わたしには、なにもない、という未知のもの、未知でしかないものにつながれてしまう点にこそ、遠藤さくらの本領がある。
ゆえにこの人は、真に役者への可能性に満ちたアイドル、におもう。
凡庸な役者ほど、自分ではないなにものか、「私」から完全に切り離された何者か、を演じ作ろうとする。天才は、役の内に「私」を発見する。自分ではないなにものか、を演じる時間のなかで、自己を知っていく。
遠藤さくらの演技を眺めるに、彼女は日常生活のなかでいつの間にか埋没し忘れ去ってしまったものを、演じた役の内に発見し拾い上げるような、静かな動揺にみたされた押さえようのない興奮をひそめているように見える。わずかに灯った関心の記憶=日常の機微を描き出すその演技には、むしろ、日常のとなりを潜行する、日常では起こりえない物語、本物の非日常を予感させるだけの力が宿っている。
この「予感」こそ遠藤さくらのそなえもつ最高度の魅力であり、映像の内でしか、演技を通じてしか自己を表現できない、自己を伸展させることができない、今日的に云えば、素直になれない、素顔を他者に提示できない、という役者としての陳腐な宿命さにおいて、このひとは白眉に映る。
もちろんそれはアイドルの有り様にも活かされる。ステージの上で披露する彼女の歌、踊りには、見知ったアイドルの弱さが見慣れないアイドルの強さと表裏一体にされている。抑制された仕草から導き出されるエントロピーの低い、妙に愛嬌のある笑顔が、このあとに一体なにが起こるのか、という不気味で澄んだ胎動を生み出す。”いや、マジ天才”、この形容も喜劇のひとつとしては処理されない。
現実のディテールを描こうとするその果敢さ、日常において意図的に消却されたその果敢さを根底に流しつつ現実と夢の接点を編む演技の才が、アイドルとして暮らす日々のなかで、光はどこにある?とつぶやいたあの瞬間から今日に至るまで、まったく枯渇することなく、また減衰もせず、槍の穂先のように鋭く延びていく光景にも驚かされる。「アイドル」への鑑賞においてこれを凌ぐ希求・興奮がほかにあるだろうか。彼女は、自己の内に秘めた想いを他者に伝えたいという、なにものかを表現する者としての、か細く途切れそうな願いを忘失することなく、果敢に歌い、踊り、鑑賞者の前にさらけ出した弱さの数々を、自己の成長の糧にしつづけている。
と、こうした感慨に浸り想うのは、ではこの人はアイドルであるのか女優であるのか、という問いである。
たとえば、役者を生業とする人、を想起するとき、そこにイメージするものとはなにか。それは、享楽を求め彷徨い俗に焦がれる人間のきらびやかさなどではなく、虚栄と野心に衝き動かされる人間の厄介さ、救いようのなさ、狂気にうちのめされ自己を見失いまた見知っていくことの醜態、ではないか。
一方、アイドルを、いや、グループアイドルを強く思い描くとき、そこに立ち現れるのは、無条件にかがやき活力を振り撒く、青春の犠牲を儚さにすり替えて笑う、つかのまのうつくしさ、である。
こうした分析的区分によって築き上げてしまうもの、眼前に出現するものとは、当然、アイドルと役者、のあいだに引かれた埋めがたい溝、である。純文学小説と通俗小説が絶対にとけ合うことがないのと似て、アイドルと役者もまた、その領分の行き交いにリメスを設けている。しかし遠藤さくらには、このリメスがない。
それはなぜだろうか。それはやはり、職業アイドルでありながら、現実と仮想との峻別を超えたところにのみあらわれる、日常=わたしの不分明といった、たとえば樹木希林のような構え、役者によって演じられた「役」がその人自身のうつし鏡に感じられる、とも迂闊には言えず、日常においても非日常においてもその人自身であるしその人自身ではまずありえないという不気味さ、狷介さ、驚愕を、宿しているからではないか。
ゆえにこの人は、アイドルであると同時に、完全に女優である。
女優としてのかがやきを見出してしまった以上、つまりアイドルを演じる少女がすでに、いや、はじめからほんとうの夢を、「どんな女にもなれる術」を手にしている、と妄執してしまった以上、眼前に立つ人物のアイドルとしての余命がいくばくもない事実を、どうしてもさとってしまう。しかし、その身勝手な随想によって発見するのは、むしろこの手もとで発光する儚さこそ、アイドルが本来持つ観念と存在理由であるという、うそ偽りのない真実である。結果、”わたしには、なにもない”、この独白に、その詩に、その物語に、遠藤さくらに触れる人間は循環して行く。*1
雨でなくとも、ちょっとした風でも吹けば散り亡んでしまう満開の桜を、綾子は縁側に座り長い間眺めていた。…膨れあがった薄桃色の巨大な綿花が、青い光にふちどられて宙に浮いているように見えた。ぽろぽろ、ぽろぽろ減っていくなまめかしい生きものにも思えるのだった。…彼女はいまなら、どんな女にもなれそうな気がした。どんな女にもなれる術を、きょうが最後の花の中に一瞬透かし見るのだが、そのおぼろな気配は、夜桜から目をそらすと、たちまち跡形もなく消えてしまうのだった。
宮本輝 / 夜桜
引用:*1 宮本輝 / 夜桜