櫻坂46の『The growing up train』を聴いた感想

座談会, 櫻坂46

(C)The growing up train ミュージックビデオ

「アイドルの可能性を考える 第六十二回」

メンバー
楠木:文芸批評家。映画脚本家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:写真家・カメラマン。

「櫻坂46の『The growing up train』のMVを観る」

島:おなじ形式のなかで逸脱していく、みたいな、そういうノリなんですね、やっぱり。
横森:これ、池田一真なんだ……。
島:小道具の使い方が同じですよ、いつもと。
楠木:音楽は季節の流れがあって素晴らしい。映像はどうだろう。鑑賞者を置き去りにできていない気がする。
横森:ファンはさ、これ階段の数をかぞえると思うんだよね(笑)。そういうノリになっちゃってる。
楠木:『Unhappy birthday構文』は明らかに池田一真の影響ですよね。そういう意味じゃ、プレッシャーはあると思うんだよね。自分の真似をした作品が自分を超えちゃうんじゃないかって。
島:アイドルのパフォーマンスはどうですか?
楠木:逸脱という意味では4期生に期待するべきなんだろうけど、順当するぎるんですよね。踊りをもって表題作に並ぶというハードルの高さが、粗い部分をあらかじめ削いじゃっている。
横森:『クリフハンガー』のほうが逸脱しているよね。センターも。藤吉夏鈴がやっていることってブルーハーツの『青空』なんだ。そういう意味じゃ大野愛実のほうが衝動がある。
楠木:『クリフハンガー』だと僕は小坂菜緒と正源司陽子の動きに逸脱を捉えちゃうかな。大野愛実の肩に小坂菜緒と正源司陽子が手をあて、その背中を押すというシーンがある。動作を見ると、小坂菜緒は見るからに詩的で、正源司陽子はどちらかと言うと散文っぽさがある。音楽を説明してはいけないという意識がどちらにもあって、感情を安易に語ろうとはしていないように見える。背中を押すというよりも、押し出しているように見える。
横森:ファンサービスとしての世代交代劇ではあるが、それこそ詩から散文へと流れた、時間的なものがある。
島:その「世代交代」っていうのが僕はいまだにピンと来なくて、アイドルへの興味をはかる物差しを置かれたと感じてしまいますが、それを逆手に取って俯瞰的に言えば、先輩のアイドルを間近で眺めて、アイドルのあり方みたいなのを学ぶ、解釈するという姿勢が、オーバーに言えば、詩が散文を経て小説へと展開したような動きを起こしている、楠木さんの言葉を借りれば、群像劇ですか、そういうものがかたちになっているのであれば、継承的=世代交代と意味づけられるかもしれませんね(笑)。
横森:興味がないことを俯瞰とは言わないよ。飽きたらそれを俯瞰できるようになるのかといえばそんなことはない。俯瞰というのは、全体像を把握しようとする意識だから。興味がない人間にはできない。
島:僕が感じているのは違和感ではなくて、門外漢として振る舞うべきかどうかという、立場への問いですね。
楠木:小坂菜緒はなぜあそこまで徹底して言葉や感情が「詩」なのか。単純に、言葉で感情を表してみても納得がいかないというのはあるとおもいます。どうにも感情を伝えきれないという場合、奥行きのある表現を作り出そうとする人がいる。そうやってできあがったものが「詩」になる。それでその詩を読もうとする、それを言葉にして表すと、散文ができあがる。たとえばアウグスティヌスの『神の国』が適当ですが、じゃあ「文章」は散文と小説のあいだをどうジャンプしたのか。この点に「逸脱」があるんだと思います。
横森:ベースを問えば、詩の奥行きの形式化が小説だからね。
島:話をアイドルに戻しますが、櫻坂の4期生はどうですか?具体的に、今回選抜に入った山川宇衣、浅井恋乃未、佐藤愛桜の3名をどう見ますか?
楠木:僕は4期生については、だいぶ当てが外れたので何とも言えないのですが、その3人だと山川宇衣がまだ語る余地があるのかなとは思います。しかし、なんと言うか、音楽にアイドルを読むという姿勢が、どのグループよりも音楽にこだわっているはずの櫻坂46では、なぜか通用しないという(笑)。
島:オーディションの失敗とは見ませんか?
楠木:さあ。
横森:アイドルと言うよりも、選考員の眼力が弱かったのかも。新潮とか群像とか、新人賞に選ばれた作家で5年後10年後に食えているのなんて数えるほどしかいない。最近さ、「新潮新人賞」の選考委員のリストを見て唖然としたよ。いつのまにか顔ぶれがガラッと変わっていて、なんともまあ、日本の純文学の破綻が目に見えるかたちで現れている。町田康や島田雅彦がいるぶん「群像」のほうがまだ救いがある。
島:選考委員で賞の価値が様変わりするって言っちゃうのは希望がなくて、乱暴ですけどね。そりゃあ、川端康成や三島由紀夫が選考委員ならそれに越したことはないですが。
横森:基準の更新を考えると、新潮の新人賞は今なら簡単だと思うね。
島:選考委員の才能を大きく超えちゃうような作品はなかなか選ばれないですけどね。受験みたいなもので、選考委員の好みに合わせないと、受からない。
横森:枠があって、そこを少しはみ出すくらいの文章を書くのが一番ラクなんだよ。新しいもの、新しくないもの、どちらかに立場を持つというのでもなく、新しいものを否定するという意味であたらしくないといけない。でもそういうものを書かなくても、通るから、簡単なんだよ今は。受賞作を見れば一目瞭然。
楠木:選考委員に才能がなくても、難易度は変わらないよ。アイドルのオーディションや文学新人賞で求められるのは、その「賞」にあった人、ということになるので。もちろん選考委員はそんなことわざわざ教えてやらないだろうけど。あと、これを言っちゃ元も子もないないですが、新人賞やオーディションを受けるようなのは、基本的には凡人なので。凡人のために用意されたシステムが新人賞です。そこを忘れちゃいけない。才能があると思うなら、他人が作ったシステムを借りる必要はないし、才能のない無名な選考委員に自分の作品を読ませてやる道理もない。自分の才能だけじゃどうにもならないという社会前提に立ってしまう凡人のために新人賞はあるんです。
横森:批評家が情けないんだよ(笑)。町田康や島田雅彦より小説が読める批評家が一人もいない。全体の問題として、単純に批評家が選考員に名を連ねていないことが虚しい。小説は小説家にだけ理解されるべきだという甘さもあるんだろうけどさ、しかし文芸批評家はどこに行ってしまったのだろう。柄谷行人、福田和也以降、才能がある批評家がひとりも出てこない。
島:たしかに小説は今どれもこれも書き手の内面世界に退いていますね。
楠木:『The growing up train』を聴いてもよく分かるとおもうのですが、逸脱や解放というのが、あくまでも内面的な広がりにすぎないという点です。これは文学に牽引された現象ですね。
横森:小説は内面に退いたのではなくて、自ら向かったって点が致命的。
楠木:内面を世界化して語るみたいな、小技もあるんだけど、どっちにしてもちっぽけなんだよね。で、そのちっぽけというのが、情けないことに僕たちを正直に映している。
横森:そうやって先細りしていって衰退したんだよね、純文学は(笑)。
島:登場人物の感情を表現しすぎですよね、小説にしても映画にしても、アニメにしても。
横森:オルガ・トカルチュクやクナウスゴールとか、あのへんが決定的だったんでしょう。
楠木:内面の世界化という意味だと、北杜夫の『幽霊』が秋元康に近いよね。
島:「僕」というのが村上春樹で限界点に達したのかなと思いますね。
楠木:たとえば「僕はまるで~のようだった」と書くところを「彼のそれはまるで~のようだった」と書くだけで小説世界がひらけるとおもうんですね。これは人称の違いと言うよりも、文体がもたらすものです。村上春樹を人称的なアイデンティティとして捉えると翻訳文学のかなめを見落としてしまう。
横森:歌詞でそういう試みを打って出るのは大変だよ(笑)。
島:秋元康のスタイルを突き詰めると「車輪の再発明」だと思うんですね。
横森:うーん、そうかなあ。
島:もちろん僕は肯定的に言っていて、要は秋元康のスタイルって、なろう小説から『百年の孤独』が生まれるような可能性の軸に立っているんですよ。
楠木:なろう小説ってアイドル・コンテンツに実はすごい似ているんですよね。なろう小説って、この時代でもたくさんの読者を小説というコンテンツに呼び込んでいる場所なので。すくなくとも日本の文学においては最前線と見るべきです。読者を獲得するという努力を忘れてしまった純文学作家連中と、またそれを目指す小説家志望の連中は、なろう小説からもっと学ぶべきですね。これは音楽というジャンルのなかでアイドルをどう見るべきかという点で重要だとおもいます。
島:なろう小説の書き手に天才がいたとして、その書き手がもし文章に真摯であるなら、最終的には『百年の孤独』を見てしまうと思うんですね。これは最初からガルシア・マルケスを見ている純文学的な人間では立てない境地であるはずです。歌でいえば、『ルージュの伝言』を今書けるとすれば、やっぱりそれはなろう小説的な立場からだと思いますよ。
横森:俺はそれをどうアイドルに落とすのかが気になるんだけど(笑)。
楠木:櫻坂ってことなら、やっぱり、アーティスティックに倒れ込むなってことになるかな。アートをやりたいという志が、大衆に歓呼されたいという欲望と相反するものだという認識に立っているようでは、アイドルとしては値打ちが下がってしまうんだと思う。

2026/02/13 楠木かなえ