中元日芽香の憂鬱
「居場所もなかった」
「中元日芽香」と聞いて、アイドルファンはなにを思い浮かべるだろうか。ダイナミックなダンス、透徹した歌声、あるいは、ひめたんビーム…。私がまず想起するのは、その身内に潜行させた、憂鬱、である。
2016年に開催された、乃木坂46アンダー・クリスマスライブ。齋藤飛鳥のドラムが響く中、ステージ上に姿を現した中元日芽香へ向けたファンの歓声の大きさ、その衝撃と震撼は、はっきりと覚えている。幼少時、田舎の湖上祭で打ち上げ花火をはじめて見物した際に経験したあの震動、地面が、空が、眼に映るすべてが揺さぶられていることの恐怖心を、思い出さずにはいられなかった。なにか不気味なもの、観客の歓声が悲鳴に聞こえるような、緊張感の共有は、むしろ演者と観者に言いようのない一体感があることを、教えた。アイドルに向けられる歓声として、これほど場違いなものはない、と感じ入る一方で、しかしアイドルを推すという言葉の意味をこれほどまでに鮮明に教える瞬間は他にないと、確信させられる。
けれど、彼女はそれで満足することはなかったようだ。そこが、その場所が、自分の居場所だと捉えることができなかった、ようだ。あるいは、捉えることを拒んだ、のかもしれない。ここに中元日芽香という人の憂鬱がある。彼女のそのアイドルとしての有り様、横顔は、これ以上ない孤立感、を漂わせる。自分の才能と見合う場所、自分の才能以上の成果を挙げられる場所があるのに、そこに郷愁を見出すことができない。より高い才能を有した人間が立ち並ぶ空間を、自分が居るべき場所だと錯覚してしまうその性(さが)は、文芸に生きる人間のどうしようもなさを克明に印している。文芸とは、ある種の孤立感、自分が世間から隔てられているという自覚に頼り作り上げるものだ、と先人は云うが、その意味では、中元は生まれながらの文芸人と呼べるかもしれない。
いずれにせよ、中元日芽香という人は、その性(さが)ゆえに、常に勝負に負け続けてきた。勝てるわけもない相手に勝負を挑みつづけ、負け続けてきた。さらには、負けるわけがないと考えた相手にも、負け続けた。ゆえに、常に、彼女には居場所がなかった。
アイドルの順位闘争における中元日芽香の特質とは、その「負け」が常に、才能に向けられる敗北、である点なのだが、アイドルの扉をひらいたばかりに才能豊かな人間と出遭いし自身の凡庸さを思い知る、屈託するという多くの平凡な少女のストーリー展開とは異なり、中元日芽香の「負け」とは、アイドルに成る以前から、おそらくは幼少の頃からすでに、他者の才能に負け続けてきたことに端を発した、敗北感、である。いわば、この世界に生まれ落ちた瞬間に、あるいは幼少期の境遇によってすべてが決定する「負け」である。そこに見る、どうしようもない救いのなさ、が独特な求心力を発揮し特定のファンをその物語に深入りさせるのかもしれない。
だが、才能や境遇を理由にした「負け」とは言い訳を作ることがきわめて容易な「負け」でもあるから、本当に、真に自分が相手に倒されたという事実の受け入れが不可能になる。彼女は、自身の行動によって負けたのではなく、境遇によって敗北したのだ、と確信している。だから彼女には居場所がなかった。
この彼女の憂鬱は、やがて大きな被害妄想となって爆発することになるのだが、それはあらためて別の場所で語ることにする。
2019/06/27 楠木かなえ