STU48 門脇実優菜 評判記

STU48

門脇実優菜(C)ミュージックヴォイス

「技巧の極致」

門脇実優菜、平成15年生、STU48の第一期生。
ダンスが上手い。並外れている。シーンにおいて最高峰の踊り手と呼ぶにふさわしい登場人物である。
セカンドシングル『風を待つ』を機に、踊ることに活路を見出し見事に一つのアイドルグループとして自立したSTU48のなかにあって桁違いのライブ表現力、段違いの才能をもったメンバーであり、これまでに数多くのステージに立ち、数多くの同業者、ファンから惜しみない称賛を浴びてきた。
アイドルのアイデンティティにされたその「ダンス」を、飽くことのないディティールの積み重ねによって日々洗練し、アイドルそのものの成長につなげている点にも驚かされる。歌唱力も抜群に良い。AKBグループの境地をよく表した才知に輝く人物、アイドルの本格派、と評すべきだろう。
ゆえにこの「門脇実優菜」を先頭にアイドルグループ・STU48は、演劇をアイドルの主体とする乃木坂46に相対する、躍ることでアイドルを飛翔させるグループとして、シーンの一方の主流になるはずだった。
しかるに彼女はセンターに選ばれ眩しいスポットライトを浴びるどころか、スキャンダルによってアイドル活動の辞退、言わば卒業にまで追い込まれ、アイドルが、夢が破断してしまった。
門脇実優菜の失敗後、STU48は石田千穂を中心にして、演劇とダンスの折衷、という、かつて欅坂46の平手友梨奈が打ち出したスタイルを継ぐ日向坂46をくれ打ちしながら、ビジュアルとしての乃木坂を模倣するという、なんとも混沌としたアイドルグループへと変身することになる。

私が云いたいのは、単純なことである。つまり通俗的であるということは、文章の質や練磨とは一切かかわりがないということだ。
通俗的とは、意識的であれ、無意識的であれ、世間の通念の範囲の中でしか、事物・事態を発想しえず、解釈することができない、ということなのである。この通念への束縛は、いかに綿密な構成やしっかりとしたディテールの積み重ねによっても解消することはできない。
つまり、きわめてレトリカルな文章で描かれた通俗小説もありうるし、また粗雑な文章で記された純文学もある、というだけのことである。
…すでに六百年前に、世阿弥は「秘すれば花」と云った。ただ花を花として書けば、花が立ち現れるという安易な意識からは、やはり本質的な文学など現れはしない。

福田和也 / 通俗的であること

最高峰の踊り子であったはずの門脇実優菜が大成しなかったのはなぜか。それはひとえに、アートとエンターテイメントの対決、という不毛に際しその一方に立ち、敗れたから、と云うしかない。
乃木坂46という確かなブレイクを前にして対等に渡り合おうとするならば、当然、乃木坂にはないもの、を強く掲げなければならない。と、凡庸な人間は考えることだろう。そうした思惟をもった際におそらく多くのアイドルファン、多くの作り手が「歌」や「ダンス」の魅力をそこに持ち出すはずだが、それがそもそもの間違いなのだ。乃木坂は歌えない、踊れない、というチャントそのものが大きな勘違いであり、乃木坂で活躍する多くのメンバーはAKBグループに所属するほとんどのメンバーよりもある面では歌えるし、踊れる。
乃木坂がヒットした理由、つまり乃木坂が編みだす音楽、歌や踊りがシーンにおいてトップクラスの表現力を誇る理由は明白で、それは彼女たちがステージの上で、舞台の上で世阿弥の云う「秘すれば花」を演じ作っているからである。秘すれば花、という思考の有り様、生き様、日常の所作、日常の演技が純文学たり得ることは説明するまでもない。乃木坂の少女たちに対し、彼女たちは本当は清楚なんかじゃない、清楚というイメージを演じているにすぎない、と観衆の多くが否定的につぶやくけれど、そのとおりに少女たちが嘘を作っている、仮面を付けているならば、当然、それは「秘すれば花」であり、つまりアートなのだ。
純文学とはすなわちアートを意味するから、幼稚なエンターテイメントでしかあり得なかったアイドルシーンに目に見えるかたちでアートを持ち込んだ乃木坂が成功するのは、これもやはりまた当然の帰結と云うほかない。
つまり乃木坂と渡り合うには、アイドルとして生を享けた瞬間に、純文学然としたアイドル、でなければならず、生まれながらのエンターテイナー、通俗に囚われる少女たちはその条件を満たさない。

とはいえ、現実を直視すれば、現在のアイドルシーンはエンタメとアートの「融合」という文学の世界では生じえない事態に直面しており、乃木坂にしてもエンタメ然としたメンバーもいれば、純文学然としたメンバーもいるし、その両極のあいだに引かれた一本の線の上をふらふらと歩くメンバーも多い。本来、純文学とエンターテイメントは分類されてしかるべきはずだが、アイドルシーンにあってはエンタメとアートがその枠組をアイドルを演じる少女を通し同じ場所で激しくぶつけ合っている、ということだ。
エンターテイメントを一言で統括してしまえば、それは大衆=観客から寄せられる期待、果ては具体的な要望に応える、という「意識」になるだろうか。ファンに媚びへつらい、人気・知名度を獲得しようと行動するアイドルの横顔もまた「エンターテイメント」にほかならない。
一方で、純文学、アート、つまり芸術とは何か。それはきっと、もし昨日の夜に見た「夢」を忘れてしまったら、いつかそれがデジャブとして現実のものとなり自己を襲うのではないか、という不安から逃げ切れずにその「夢」の内容を部屋の壁になぐり書きしていくような行為、を意味するのだろう。
この、並べて比較すべきではない作品が当たり前のように同じ机の上に並べられ、鑑賞され、吟味され、幼稚に議論され、その優劣を競い合うのが現在のアイドルシーンのイコンである。

ファンの期待、要望に過剰に応え、アイドルの魅力を失い、やがて「アイドル」から破門されてしまった門脇実優菜がエンターテイメントの申し子であることは疑いの余地もない。
エンターテイメントの極北にたどり着くことがアイドルの破滅を意味する、という、いかにもエンタメ的な思考、物事の捉え方にも引かれるには引かれるが、真に考えるべきは、エンターテイナー・門脇実優菜の、その破格の踊り、アイドルの歴史そのものにおいて五指に入る踊り、多くのライバルを圧倒し、ねじ伏せるそのライブ表現力を以てしても乃木坂の魅力=アートには太刀打ちできなかった、という点だろう。
アイドルの踊りにおいて、通俗的であること、が足を掴むのは、当然かもしれない。作詞家・秋元康の詩情の上で躍るという、つまり他者の言葉のなかでアイドルを生かす際に、その言葉への解釈が作詞家の想像力の範囲を出ないことは、むしろ作詞家の詩情の価値を押し上げるのではなく引き下げているようにすら見える。作詞家によって創造された詩的世界をレトリカル磨き上げステージの上で披露するアイドル=門脇実優菜と、作詞家の詩情を現実世界において先回りし迎え撃つようなアイドル、たとえば『帰り道は遠回りしたくなる』における西野七瀬や生田絵梨花とでは、やはり後者のほうが魅力的なアイドルに映る。
最高のダンサーであった門脇実優菜が失敗してしまった理由はこの一点に尽きるだろう。
大衆の声価に一歩も譲ることなくつねに自分のやりたいようにやる、自己の青春の価値を普遍のものとする作詞家・秋元康によって編まれる言葉の数々が純文学でしかあり得ない以上、その詩情を活かすのもまたアイドルのスタイルにアートを具えた人物なのだ。

 

総合評価 73点

アイドルとして豊穣な物語を提供できる人物

(評価内訳)

ビジュアル 13点 ライブ表現 18点

演劇表現 14点 バラエティ 13点

情動感染 15点

STU48 活動期間 2017年~2021年

引用:*1 福田和也/作家の値うち

2023/03/31  大幅に加筆しました(初出 2019/07/06)