アイドルと演技=虚構(うそ)について

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葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏

「アイドルと演技=虚構(うそ)について」

「アイドルの値打ち」では、これまでに、虚構(フィクション)という言葉を繰り返し使用してきました。
虚構とは、もしかしたら、(アイドルファンにとっても)やや聞き馴れない言葉かもしれません。(冗長性の回避が命題にある人間がそれをあえて説明する、というのは立場の放棄に映るかもしれませんが)この項では、虚構について、その外郭に触ってみようと思います。

まず、大前提として、「アイドル」とはそれを演じる少女の物語、フィクションであることを私たちファンは認めなければなりません。フィクションとは言うまでも無く、虚構です。カメラに映し出された瞬間に、舞台装置の上に立った瞬間に、あるいは、キャッチフレーズを思考した瞬間に彼女たちは虚構をつきはじめる。物語を語りはじめる。フィクションの重要性や回避不可能性を理解していないと、ここで、嘘というワードに対して感情的で否定的な態度をとってしまうかもしれません。虚構とは清廉潔白を侵害するものだと、勘違いをしてしまうかもしれません。

フィクションの重要性とは、嘘を吐くことによって”はじめて”理解される真実にあります。映画や漫画を例にするとわかりやすいですが、ファンタジー世界など、フィクションを代表するような架空の世界設定にあって、現実には起こり得ない、とされるような展開(たとえば魔法による争いなど)によってもたらされる結果に人々は感動をする。その感動のなかに教訓も含まれるでしょう。戦争の悲惨さや世界の終焉をファンタジーで描いたとき、そのファンタジーはもちろん、嘘であるけれど、リアリティのある描写を得意とする戦争映画では得られない現実的な感想を視聴者は獲得している可能性があるのです。世代によっては、あるいは、戦争資料を眺めることよりも、2次元のアニメーションに依ったほうが「戦争」を身近に感じられるかもしれない。つまり、リアリティという手法をとらずに、ファンタジーという手法=嘘によって、戦争の悲惨さを伝えようとした作手の存在が認められる、ということです。(「秘すれば花」という概念はこのような例を一言で現した言葉と云えます。)
「夏目友人帳」というきわめて繊細で人物描写が巧みな漫画・アニメがありますが、アヤカシ (妖怪)がみえてしまう主人公が幼少期の自分と向き合いながら、アヤカシ (妖怪)と対峙し、そこに自身を投射しながら成長して行く物語ですが、これはアヤカシ (妖怪)という虚構(うそ)の存在を借りて、作者が描きたい、伝えたいと思う真実に読者を到達させようと試みているのです。
葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」で描かれた”波”がスローモーションカメラで捉えた波のように書かれている(再現されている)、と話題になったことがありましたが、実際に北斎の眼に波がどのように映り、揺いていたのか、それは誰にもわかりません。が、彼の書いた”波”もまた、真実を伝えるための虚構であったことに変わりはありません。北斎は”波”の真実を伝えるために虚構をついたのです。先端がカルマのように枝分かれする”波”を描いた。それが技術の発達によって、真実と、嘘から真実に到達するまでの経緯として、たまたま証明されてしまったに過ぎないのです。そして、そのような現象は奇跡との遭遇ではなく、日常として私たちの目の前に転がっている類いのものなのです。

(C)鈴木央・講談社/「劇場版 七つの大罪」製作委員会

アイドル本人に話を戻すと、少女がアイドルを演じるというのは、その演技を通して、少女は自身の内にある何か=真実を伝えようとしている、ということです。少女の本来の姿を眺めるには彼女の作る虚構に触れなくてはいけない。明喩でも暗喩でもなく、現実として接する必要がある。少女がつく日々の嘘、それがどのような真実を伝えるために作られた嘘なのか、我々は読み解かなくてはならないのです。それが、アイドルの演技、大仰に云えば、ドラマツルギーを愉しむことになる。

ファンタジーアニメである「劇場版 七つの大罪」の主題歌が乃木坂46の『空扉』であったのは、面白い、奇妙な組み合わせであった、と云えます。空扉において書かれた歌詞が虚構=もうひとつの別の世界からの脱出であった点はアイドルファンとして看過できない出来事ではないか、と。アイドルになった少女が、アイドルとして作り上げた虚構、そのもうひとつの別の世界の中で暮す少女が、その世界の空に浮かぶ空扉を見つめている。それを、この世界から脱出するための希望の扉として扱っている…。そのような視点で、改めて、『空扉』を聴いてみると、アイドルの嘘についてあたらしい発見があるのではないでしょうか。

2019/02/04 楠木