2018年のアイドル史 アイドルの発見

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「平成最後の一年」

「葱華輦は静かに遠のいていった。雨は降り続いた。皇居正殿では、早朝から斂葬当日嬪宮祭の儀が執り行われ、両陛下と皇族方が先帝陛下に最後の拝礼をし、轜車発引の儀の後、台車に載せた嬪宮を、侍従らが宮殿車寄せまで引き、轜車に移した。…幔門の幕が開き、葱華輦は宮廷装束の者たちに支えられて、しずしずと轜車に移された。轜車は八王子武蔵野御陵に向けて、中央高速道路に入った。かくして昭和は終わった。(*1)」
平成が終わるときに、このような描写が書かれることはありません。「死去」という終わりの象徴によって時代が転換しなかったことにはどのような意味があるのでしょうか。大仰な比喩ではなく、文芸の世界にも、アイドル界にも、同じ問いがあるようにつよく感じます。

指原莉乃 (C) DWANGO

死という明確な境界線が作られずにあたらしい時代が、あらたな物語が絶え間なく作られていくことは、アイドルファンにとっては見慣れてしまった光景かもしれません。平成という時代が終わると決まったときに、はじめて「平成」を意識した日本人が居たように、アイドルシーンも平成の終わりに立あう姿勢を都合よくとっています。指原莉乃、西野七瀬の卒業発表には現実的な問題から遊離した、平成年間への過剰な意識があったはずです。とくに、西野七瀬の存在は前田敦子とは別の、現代ではなく、近代としての象徴のひとつになるのではないか、と思います。しかし、終わりの象徴に終わりの出来事を重ね、興じることだけでは、はじまりの証しにはなりません。なにかが終わったということは、なにかがはじまったことだと安堵したのが昭和の終わり/平成のはじまりでしたが、そのような観測を嘲笑うかのように平成ははじまりませんでした。平成がはじまったあとにそれを意識させた出来事とは、「昭和を生きた人間の終わり」だけでした。江藤淳の自殺はそれを象徴した出来事と云えます。アイドルシーンに視線を戻して時代をなぞるのならば、次の時代で、その時代のはじまりを象徴する出来事とは、やはり、なにかが終わったとき、になってしまうのではないか、とつよく感じます。そのような回帰に立ち向かうテーマとはどのようなものでしょうか。このような問いが発せられたタイミングで松井珠理奈が乃木坂46に対する「闘争」を口にした、という点は看過できない、とても意味のあることです。フィクティブなストーリーを作り上げ、それをファンにしっかりと濁さずに提供していく姿勢が維持できている点は、凄まじい。無意識にも、意識的にも、現代アイドルのあり方、物語の作り方を熟知している。この「闘争」が彼女の内から欠落しない限り、その圧倒的な存在感は揺るがないでしょう。フィクティブという観点でならば平手友梨奈も桁外れな存在感を放っています。彼女が他のアイドルの追随を許さないのは、やはり、こちら側、観者側にフィクティブな批評をさせる原動力として機能するからです。彼女を材料にして、創作せずにはいられない誘き寄せがある。ファンに対しても、彼女は自分の書いた物語を、エピソードを、一つずつ発見して拾い上げなくてはいけないと自覚させます。回帰に立ち向かう行為とは、つまり、”発見”になるのではないでしょうか。

柿崎芽実 (C)堀内亮/HUSTLE PRESS

平成最後の一年で発見という要件を満たしたアイドルを挙げるならば、まず、けやき坂46の柿崎芽実。彼女の”美”は近年デビューしたアイドルのなかでもっとも驚きがあり、なによりも、他の誰よりもコケットリィです。そのような美の持ち主がやや戦略性のあるキャラクターを練り、構成していこうとするきらいがある点に深い隘路との遭遇を予見してしまいますが、資質という観点では頭一つ抜けた存在だと感じます。

AKB48ではやはり、矢作萌夏でしょうか、発見というよりも出現と表現したほうが適当かもしれませんが、彼女の誕生によって、AKB48が坂道グループをある意味では、はじめて、意識したように感じます。きっと、ジャンヌ・ダルク的な求心力のようなものが彼女の内にあるのでしょう。坂道グループ、とくに乃木坂46との交錯を試みる場合、谷口めぐの存在がキラーとなると個人的に期待をするのですが…。
AKB48で発見という要件を満たすアイドルはもうひとり居て、それは後藤萌咲です。後藤萌咲の批評欄で彼女を「鍵」と喩えましたが、彼女にはあたらしいファンをつくりあげる開拓的な迫力を、可能性を感じます。後藤萌咲というアイドルが中央に立つ舞台というのはAKB48にはなかった物語と云えるのではないのでしょうか。それは他のグループの模倣品と揶揄されるかもしれませんが、まったくあたらしい物語を描く可能性もあるため、彼女を批評の空間から外すことは出来なかった。彼女の浮遊感には未来的な希望を見出すことができます。

SKE48では末永桜花に注目しています。彼女の内奥に潜んでいるはずの反動性が発生したらとてもおもしろくなるのではないか、と期待しています。グループを俯瞰すると、SKE48は現実的にも、虚構的にも、あらたな局面に立っているのではないでしょうか。前例のない未知との遭遇という意味での発見ならば、北川綾巴の美がミュージックビデオという仮構の中で特別な意味を内包して花開いたのはグループにとって価値のある財産になっている、と云えるかもしれません。

佐々木琴子 (C)BOMB! 2018年11月号

乃木坂46でもっとも注目しているのは佐々木琴子ですが、旬がすぎてしまったようにもおもいます。もし、彼女が本物ならば旬などという概念は置き去りにするのでしょうが、中村麗乃、筒井あやめという逸材の出現は、大和田南那に追いかけられる小嶋真子を想起させます。もちろん、佐々木琴子自身の興味は、そのような範疇にないのでしょうが。ポテンシャル、逸材という言語が作る感情によって導かれる”覚醒”への期待感が彼女のアイデンティティになってしまった点と、現在までに彼女が書いた物語が「成熟と喪失」というテーマを満たすため、100点を付ける可能性のあるアイドルのひとりに彼女の名が挙げられます。

STU48は個というよりもグループそのものが発見であったはずです。瀧野由美子という逸材を入り口として、その奥には未来としての子供が揃っている。瀧野由美子が他のグループでデビューしていなかったことには奇跡すら感じてしまう。岩田陽菜や石田千穂の成功は当然の成り行きに映るので、次に奇跡との遭遇を果たすのは市岡愛弓になるのでは、と考えています。

STU48とは対照的に、NGT48は中井りか、個の一年でした。アイドルとしての実力はまだまだですが、彼女はやはり、「おもしろい」と感じさせる”なにか”があります。「好きのたね」でみせた表情は興味深い。センターの資質がある。日常の喜劇を看過させ、大人たちがなぜ彼女の虜になるのか”わかった気にさせる”、そんな笑顔をミュージックビデオの中で見せています。籠絡という意味では、現代アイドルシーンに呼応した人物と評価できます。

2019年、あたらしい時代を生きるのは、前の時代を生きた人間(アイドル)です。あたらしくはじまった”なにか”の中で終わりが訪れるとき、発見されたアイドルたちが書く物語はどのような形で奇跡との遭遇を描くのでしょうか。

引用:(*1)福田和也「平成の時代精神」

2018.12.27  楠木融