自分の書いた文章を読んでもらいたいと思うのは恥ずかしいことなのか

ブログ

「アンビバレント」

ブログを書き、インターネット上に公開する。個人的な情報を発信する。今日では当たり前の日常風景となったこの行為の目的をあらためて考えてみると、まず、自分の生活の匂いや記憶を他者に伝えたい、誰かと共有したい、そのような「願い」が前提として見えてくる。そして、その「願い」の底には、他人に認められることで自分の内に秘められた可能性の存在を信じられる、という希求があるのではないか。
ある編集者との出会いをきっかけにして、『note』というウェブサイトを知ったのですが、ざっと広く見渡してまず感じたのは、自己療養あるいは自己啓発感に満ちている場所だな、と。『note』は、私の文章を読んでほしい、私を見てほしい、この希求の極北に立つのではないでしょうか。そこでタイトルにつながるわけです。大抵の場合、願いがつよければつよいほど、恥じらいの色は比例して広がっていくものです。

では、自分の書いた文章を読んでほしいと渇望しその通りに行動することは恥ずかしいことなのか。結論から先に言えば、それはけして恥ずかしいことではありません。
もしあなたが日々ブログを書いていて、記事を公開するときに、恥ずかしい、と感じるならば、それは文章を書くという行為のなかに、多少なりとも芸術性が芽生えていることを自覚しているからです。文章を意識的にノートへと記したとき、その文章を、顔も名前も知らない赤の他人の目にさらすことに対し、期待と同時になにがしかの躊躇、不安を覚える人はけして少なくはないはずです。もしあなたも不安をいだくならば、そこにはすでに芸術性が芽生えてしまっている、と言えるでしょう。
生活にかかわる煩わしい些事の一切を召使いに任せ、海の見えるアトリエで絵を描く。つまり生活をかけて働く、という場所から決定的に隔てられたところで自己の可能性を追求する行為こそ芸術だと表現するならば、現代人がブログを書くのも実はこれに通底した行為なのです。誰に求められたわけでもないけれど、仕事とはかけはなれた場所で意識的に文章を記す……。だからこそ、そのきわめて個人的な文章=物語を公開することにどこか気恥ずかしさを覚えてしまう。
そういう意味では、『note』で文章を書き、ハッシュタグを付けて記事を公開する多くの書き手を目の当たりにすると、これはなかなか度胸があるものだな、と感服します。

しかし、じゃあお金のために、生活のために文章を書くことは芸術とは呼べないのか。当然、強い疑問が出てくるかとおもいます。
文芸評論家・江藤淳をして「日本の文芸批評の創始者」と言わしめた小林秀雄という人物は、文章を最後まで読ませる、この点にきわめて意識的に振る舞った作家です。文芸評論家と聞くと、なにやら小難しい、難解な表現を用いて文学を、社会を論じている。そんなイメージを持つかもしれません。しかし小林秀雄は、それではダメだ、作家として食べていけない、と考えたわけです。これとおなじことをユリウス・カエサルも言っている。文章を決めるのは表現の選択次第だ、と。小林秀雄は、批評家を成立させるために文章を試みる、というよりも、批評家であり文章を書くことによって生活が成り立つ、という状況を作ったわけです。芸術性が求められる場所で、しかしそこで食べていくには読まれなければならない、という両極の中心で本気で闘っていた。
つまり、(これはあらためて問うまでもないことかもしれませんが)文章でお金を稼ぐつもりなら読者を楽しませる必要がある。最後まで読ませる必要がある。だから、自分の文章を読んでもらいたいという気持ちが強くなる。これは当然の結実と言うほかない。
文章を書くことに意識的になればなるほど、自分の文章を自分ではない別の誰かに読んでもらいたいと考えるのはあたり前のことであり、むしろそれは文章を書き続けるための原動力になりえる、と言えるでしょう。

それでもなお、自分だけの世界に跼蹐(きょくせき)した、閉じられたブログ=狭くて仄暗い自分だけの世界に深い魅力を見出してしまうのもまた事実です。つまり、読まれたい、しかし閉ざされているべきだ、というアンビバレントを発見する(この感情が今日のアイドルに通底しているのはあらためて説明するまでもありませんね)。
一昔前、ツイッターやらフェイスブックやらまだ存在しない時代に、インターネット上で自分を表現するには個人ブログが一番だ、といった時代に、インターネットゲームの世界で知り合った友人がブログを書いていると言うので訪問してみた。するとページを開いた瞬間に音楽が流れるのですね。これには驚き呆れたものです。しかし、この、読者を過剰に意識した結果、むしろ読者を徹底的に遠ざけてしまうような行い、閉塞感こそブログの魅力なのではないかと、羨む日もまたたしかにあるのです。
令和が始まった現在、もし、魅力溢れるブログを書きたいと決意するならば、読者を楽しませる仕掛けを作ると同時に、その仕掛けの中に、絶対に譲れないもの、自己の内で閉ざされたものを記せば、きっとそれは、言葉の真の意味で「個性ある文章」となり、読者を魅了するかがやきを放つのではないでしょうか。

と、ふらふら書き連ねていたら、江藤淳が小林秀雄の文章について、散文を用いながら詩的に凝縮されて行くところに”際どさ”がある、と評したあと、自分は歳を重ね、体力のせいか、文章がちょっと長くなる。そのようなことを書いていたなと、ふと思い出した。本棚から本を取り出し確認するとたしかにそう書いている。そういえば、作詞家・秋元康の歌詞が散文的になり、いくらなんでもつめこみすぎだ、とアイドルファンから揶揄されてしまうのも、年齢的な体力の所為かもしれない。なんてことを考え、今日もアイドルについての文章を書いています。

そう、実はこの文章は、もし自分が『note』を始めたら、一体どのように自己紹介を語り始めるのか、という想像と実験のもとに書いた、自分自身に向けた文章でもあるのです。

2021/01/10  楠木

   

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