AKB48 後藤萌咲 評価

AKB48

後藤萌咲 (C) BUBKA 9月号 インタビュー「Moet & Bourgeon」/白夜書房

「マッカール家の人々」

ビジュアルについては、ルックス、スタイルともに申し分なく、バランス感覚を伴った姿形はクールでスマートなアイドル像をつくり上げている。笑うとそのクールさが途端に消えて、抑えきれない好奇心によって森の深い場所を彷徨うことになった子猫のような”戸惑い”が形づくられる。このようなタイプのアイドルは時間の流れが止んだ虚構の中で輝きを放つことが多いが、「後藤萌咲」の場合は静止的な世界よりも、映像作品といった動的な架空の世界の中に置かれたほうが心を揺きやすいようである。繰り返しループされる世界でみせる、生命感(儚さや拒絶)ある表情はとても煌やかだ。

後藤萌咲は、収斂された、ひとつの世代(あたらしい、次の世代)を象徴するアイドルでもある。後藤萌咲のような少女が「後藤萌咲」のようなアイドルへと成長したのは、時代の宿命であり、現代のアイドルシーンが回避できなかった「馴致」の象徴と云える。
谷口めぐがAKB48にとって最後の「個性」と「主人公」であり、グループのイデオロギーをしまい込む筐体的なアイドルであるのに対し、後藤萌咲は、グループが別の世界へ冒険するためのあたらしい扉を開く度に、その扉の向こう側で獲得した「存在理由」を形象化し保存するために機能する”バッジ”のようなアイドルだ。時代の要請を反映するというよりも、時代の渦に振り回され、衣装毎に付け替えられる次世代アイドルのフラッグシップであり、彼女は、”移動”をするAKB48の映し鏡でもある。

グループアイドルの物語を読むとき、「彼女」が主人公として書かれる本編だけではなく、他のアイドルの物語に登場する「彼女」も知る必要がある。外伝において、本編ではみせない笑顔や立ち居振る舞いを作るアイドルはめずらしくはない。ある意味では認め難い光景かもしれないが、このようなグループアイドルの通史のなかで描かれるプロセスは、バルザックの『人間喜劇』における登場人物の再登場、ゾラの書く『ルーゴン・マッカール家』の人々が、それぞれの小説のなかでまったく異なる表情をみせるのと似ている。時代に適合しようと試みるアイドル(後藤萌咲)が時代に呼応しようと動かないアイドル(谷口めぐ)と交錯するとき、後藤萌咲が谷口めぐの書く物語のなかに含まれたとき、”自分ではない他のだれか”が主役の物語の登場人物として、「後藤萌咲」が主役として書かれる物語では見せることがなかった様々な表情をみせることになるだろう。つまり、谷口めぐ世代と後藤萌咲世代の隔絶は、他者の物語への再登場の利用を可能とし、AKB48に群像劇の再来という奇跡を呼び込む可能性、展望を見い出すことができる、と妄執する。グループアイドルの魅力とは、血の継承であるのは云うまでもない。「継承」の流れのなかで、アイドルたちがさらけ出す様々な表情の発見。自身の応援するアイドル本人が描く「本編」とは別の場所、別のアイドルが描く(別のアイドルが主役の)物語、その物語の中に登場する「彼女」は本編とはまったく異なった生活をみせている。「再登場」による発見の累積によって、ファンは”はじめて”彼女たちのことを理解するのである。
後藤萌咲というアイドルの「再登場」には間断のなさや邂逅の見出しやすさがあり、豊穣なストーリー性を抱えた人物に映る。彼女が、他のアイドルの物語に含まれたとき、再登場したとき、あたらしいストーリー、あたらしい展開がうまれやすいのではないだろうか。

「だれだって自分が自分の友だちさ」と媚びるような笑顔を見せて、フェイギンが答えた。「どこに行ったって、自分くらいいい友だちはないからね」
「時によってはそうでないこともあるぜ」といかにも世なれた大人を気どって、モリス・ボルターが答えた。「自分がいちばんの敵だという人間もあるからね」
「そんなこと考えちゃいかん」とフェイギンは云った。「自分が自分の敵になるのは、ただ自分と友だちになりすぎるからであって、自分以外の人間に気を使うからじゃないさ。なんの、なんの、そんなこと、道理としてありゃしないよ」

ディケンズ 「オリバー・ツイスト」

後藤萌咲が、自分以外の人間が奏でる「音」を信頼する(身を委ねる)ことができずに、不信感だけではなく拒絶感さえも示してしまうのは、”自分自身がいちばんの友だち”だからである。そして、それが”つよがり”という「個性」として捉えられ、賛辞さえおくられてしまう。彼女を『そこから動けなくしている』のは、この個性への錯覚が原因だろう。

後藤萌咲は「個性」への問いが尽きないアイドルである。それは彼女から、ある種の「個性」が欠落してしまったせいかもしれない。だから彼女は、あたらしい時代に呼応しようとしても、あたらしいタイプのアイドルにはなれないし、グループのイデオロギーを継承していないから、古いタイプのアイドルともよべない。彼女は、何処へも往けない浮遊感を身に纏うアイドルと云える。例えば、後藤萌咲がファンとの交錯によって起きる情動。これは世代が異なれば、ひとつの個性、アイデンティティにさえなっていたはずだ。例えば、後藤萌咲のギリシャ彫刻を想わせる姿形、これも秋元才加がアイドルとして生きた時代ならば、秋元がそうであったように、そこに「主人公」を感じさせただろう。共時性の閾には到達しない、再現性の範疇とよべる現象が彼女から、(彼女と同世代の、多くのアイドルから)個性を欠落させてしまった。後藤萌咲はその象徴的存在である。だから彼女は「比較」されることに飽いている。その行為自体に何らかの意味(価値)をみいだすことができないでいる。自発的能動性に対する貧弱さを彼女から感じてしまうのは、この一種のペシミズムが影響している。

同世代のアイドルと比べ、ペシミズムが後藤萌咲に重くのしかかるのは、彼女がセンタータイプのアイドルであること、その宿命を背負ってしまったからである。『ひと夏の出来事』において、ノスタルジックな映像世界の中で儚く舞う彼女の英姿が、自身の存在理由を満たしていくような光景(苦闘)にみえたことこそ、彼女がセンタータイプのアイドルである証だろう。もし、今後、ペシミズムがもたらす、”世代”を象徴する「憂鬱」をステージの中央で表現することが可能になれば、自己の可能性の幅を押し広げることができれば、「アイドル史に銘記されるべき人物」と評価することになるはずだ。後藤萌咲とはAKB48というグループにとっての「鍵」であり、その「鍵」の合う”扉”を探す旅こそ、現在のAKB48に提示された命題である。今後の動向に注目すべきアイドルの一人と云える。

 

総合評価 70点

アイドルとして豊穣な物語を提供できる人物

(評価内訳)

ビジュアル 14点 ライブ表現 16点

演劇表現 12点 バラエティ 15点

情動感染 13点

AKB48 活動期間 2014年~

評価更新履歴
2019/01/18  再評価、加筆しました バラエティ 14→15

評価点数の見方